もいんもいん!

「もいん」とはもとは北ドイツのおはようという意味です。

ミュージアム『モダン・ウーマン』


フィンランドの女性芸術家の作品を初めて見ました。
表現主義のような素敵な作品が多く、とても好きになりました。
全ての作品写真撮影可でした。


マリア・ヴィーク(館内の解説を写真に撮ったのですが、ボケていたので、正確ではないです)

1880年代から国際的に活躍した、先駆的な女性芸術家の一人。

1853年にヘルシンキの裕福で教養のある家庭に生まれ、1873年からフィンランド芸術協会の素描学校と、画家で教授のアドルフ・フォン・ベッカー(1831-1908)の画塾で学ぶ。

1875年にパリに留学し、画塾アカデミー・ジュリアンでおよそ4年間研鑽を積んだ。1878年フィンランド芸術協会の展覧会でデビューし、1880年春からパリのサロンに出品している。その年、同芸術協会の素描学校の教師に村得られるが、自身の創作活動に専念するため短期間で辞めている。

1880年代、ヴィークはフィンランドとフランスで交互に精力的に仕事をした。自然主義を代表するフランス人画家ジュール・バスティアシ=ルパージュの影響を受け、いち早く戸外での絵画制作を実践している。
1883-84年に親友のヘレン・シュルフベックとブルターニュ地方を旅し、明るい色彩で≪教会にて≫のような風俗画や子どもの絵を多く描いた。1889年には、二人でイギリスのコーンウォール地方にあるセント・デイヴスを訪れ、ヴィークは代表作≪世の中に出る≫(フィンランド国立アテネウム美術館)を描いている。これ以降彼女の絵画は、内面性を強調した、より象徴主義的な画風へと移行している。

ヴィークは、1890年代までに肖像画家として人気を博し、1900年のパリ万博博覧会では≪世の中に出る≫で銅メダルを受賞している。晩年、アトリエに残されていた作品が画商コースタ・スチンマン(1888-1947)によって買い上げられ、1920年代初期に相次いで展示されたことは、フィンランド国内におけるヴィークの再評価を促した。

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マリア・ヴィーク「芸術家の姉ヒルダ・ヴィークの肖像」

 

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マリア・ヴィーク「古びた部屋の片隅、静物

 

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マリア・ヴィーク「別れ、石垣のための習作」

 

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マリア・ヴィーク「教会にて」

 

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マリア・ヴィーク「アトリエにて」

 

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マリア・ヴィーク「ボートをこぐ女性、スケッチ」

 

ヘレン・シャフルベック

ヘレン・シャフルベックは、フィンランドを代表する最も著名な画家のひとりである。
11歳のときに才能を見出され1873年からフィンランド芸術協会の素描学校とベッカーの画塾で学んだ。1879年に同芸術協会の展覧会でデビュー、翌年パリに留学し、主に画塾アカデミー・コラッシで研鑽を磨いた。
1880年代から1890年代初頭にかけて、シャルフベックは実に国際的で活動的な時期を過ごした。パリ滞在を中心にヨーロッパ各地を旅し、レアリスム(写実主義)から自然主義象徴主義にいたるフランスの同時代美術や、過去の巨匠たちから多くを学んだ。1888年、パリのサロンで好評を得た≪快復期≫(アテネウム美術館)はフィンランド芸術協会の買い上げとなり、さらに翌年のパリ万博で銅メダルを受賞した。
1892年に同芸術協会の素描学校の教師となり、およそ10年間教壇に立つ。1902年に健康問題を理由に辞職し、母親とともにヘルシンキから北に60キロほど離れた町ヒュヴィンガーに移住した。美術界から距離を置いてこの地で制作に打ち込む中で、彼女の芸術は大きく展開し、余分なものをそぎ落として形態を単純化する独自の形式を確立した。≪コスチューム画≫や≪きこり≫は、そうした新たな表現への展開を如実に示している。

シャルフベックは人物画を得意とし、常にモデルを必要としたが、海外の雑誌や画集からもインスピレーションを得て描いている。1925年に海辺の町タンミサーリに移って以降は自身の初期作品の再解釈にも試み、晩年は自画像と静物画に専念する。創作意欲は老齢まで衰えることがなく、その生涯で1000点以上の作品を残した。

 

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ヘレン・シャルフベック「少女の頭部」

 

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ヘレン・シャルフベック「母と子」

 

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ヘレン・シャルフベック「フィエーゾレの風景」

 

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ヘレン・シャルフベック「祖母」

 

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ヘレン・シャルフベック「コスチューム画Ⅰ」

 

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ヘレン・シャルフベック「木こりⅠ」

 

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ヘレン・シャルフベック「母と子」

 

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ヘレン・シャルフベック「占い師(黄色いドレスの女性)」

 

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ヘレン・シャルフベック「古い醸造所(コンポジション)」

 

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ヘレン・シャルフベック「シュンドビューの館」

 

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ヘレン・シャルフベック「青りんごとシャンパングラス」

 

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ヘレン・シャルフベック「ロヴィーザからきた少女」

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エレン・テスレフ

エレン・テスレフ(1869-1954)
20世紀初頭のフィンランド美術に色彩の革新をもたらしたエレン・テスレフは、1869年にヘルシンキに生まれ、美術や音楽を愛好する文化的な家庭に育った。1885年からベッカーの画塾とフィンランド芸術協会の素描学校で学び、その後画家グンナル・ベルントソン(1854-1895)に師事した。1891年、フィンランド芸術協会の展覧会でのデビューを経てパリに留学し、アカデミー・コラロッシで学んだ。パリでは象徴主義に傾倒し、1890年代を通して、灰色や褐色の淡い色調で≪春の夜≫のような詩的な風景画や内省的な人物像を描いた。

1894年の春に初めてイタリア各地を旅行する。以来、同国を頻繁に訪れ、とりわけフィレンツェに長期滞在して制作することを好んだ。一方、母国の雄大な自然にも強い愛着を持ち、家族と夏を過ごしたフィンランド中部に位置するルオヴェシの自然の中で多くの風景がを残した。

テスレフの画業において重要な転換点となったのは、ワシリー・カンディンスキーの芸術との出会いである。1904-06年にカンディンスキーの作品に触れて以来、純粋で明るい色彩とパレットナイフを用いた大胆な筆致で描くようになる。テスレフの新たな画風は注目を集め、1908年の初古典では≪トスカーナの風景≫がフィンランド芸術協会の買い上げとなった。テスレフは木版画においても色彩の実験を試み、1907年の≪マリオネット≫に代表される色鮮やかな多色刷りの木版画を生み出した。
特定の運動や芸術グループに属さず自由であること、常に自らの芸術を刷新することを望んだテスレフは、高齢まで精力的に制作を続け、生前から大きな成功を収めている。


 

 

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エレン・テスレフ「ヤマナラシ」

 

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エレン・テスレフ「春の夜」

 

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エレン・テスレフ「トスカーナの風景」

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エレン・テスレフ「ボール遊び(フォルテ・デイ・マルミ)」

 

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エレン・テスレフ「装飾的風景」

 

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エレン・テスレフ「イタリアの風景」

 

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エレン・テスレフ「ヴァルコサーリ島」

 

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エレン・テスレフ「自画像」

 

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エレン・テスレフ「帽子をかぶった自画像」

 

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エレン・テスレフ「イカロス」

 

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シーグリッド・ショーマン

 

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シーグリッド・ショーマン「イタリアの風景、ヴォルテッラ」

 

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シーグリッド・ショーマン「イタリアの風景」

 

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シーグリッド・ショーマン「ヘルシンキ市立庭園」

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シーグリッド・ショーマン「トーロ地区」

 

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シーグリッド・ショーマン「海辺のヤシの木」

 

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シーグリッド・ショーマン (左)「エリサベツ・ヴォルッフ」(右)「自画像」

 

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シーグリッド・ショーマン「モデル」

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エルガ・セーセマン


 

 

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エルガ・セーセマン「通り」

 

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エルガ・セーセマン「カイヴォプイストからの眺め」

 

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エルガ・セーセマン「室内」

 

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エルガ・セーセマン「カフェにて」

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エルガ・セーセマン「自画像」

 

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エルガ・セーセマン「花売り」

 

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ヒルダ・フルディーン「考える老人」ブロンズ

 

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シーグリッド・アフ・フォルセルス「青春」ブロンズ

 

シーグリッド・アフ・フォルセルス(1860-1935)

ヒルダ・フルディーン(1877-1958)

フィンランドを代表するこの二人の彫刻家は、いずれもパリでオーギュスト・ロダン(1840-1917)に学び、男性が支配的な芸術である彫刻の世界において、女性が活躍する道を切り開いた先駆者たちである。

シーグリッド・アフ・フォルセルスは、1876年からフィンランド芸術協会の素描学校で学ぶ。その頃、同国では彫刻の公教育が行われていなかった。1880年に留学したパリのアカデミー・ジュリアンにも女性の彫刻クラスはなく、1882年にカミーユ・クローデル(1864-1943)らと共に彫刻家アルフレッド・ブーシェ(1850-1934)に教えを乞う。翌年彼の紹介でロダンの弟子となり、≪カレーの市民≫の制作を補佐した。約3年間彼の下で研鑽を積み、1886年から独立した彫刻家となる。以後フランスとイタリアを拠点に制作を続け、1900年代初頭に大規模な浮彫連作≪人間の魂の成り行き≫を完成させる。翌年、フィンランド人女性芸術家では初めて、フランス芸術協会の入会が認められた。

より若い世代の芸術家ヒルダ・フルディーンは、1893年からフィンランド芸術協会の素描学校でシャルフベックらに学んだ。版画と彫刻に強い関心を示し、1899年からパリのアカデミー・コラロッシで研鑽を積んだ。1900年のパリ万博ではフィンランド館の装飾にも携わる。同年開催されたロダンの大回顧展に衝撃を受け、彼の影響が色濃い≪考える老人≫を制作する。1903年に姉の夫でフランス人批評家のジュリアン・ルクレルク(1865-1901)の紹介でロダンの弟子となり彫刻の制作に励んだ。1906年フィンランドに帰国し、生涯で2度結婚を経験するが子供はいなかった。彫刻家としてのキャリアは比較的短かったものの、版画家、画家として晩年まで活動した。

 

版画素描展示室

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マリア・ヴィーク「ポーランド人女性」

 

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マリア・ヴィーク「裸体習作、立つ少年」

 

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ヘレン・シャルフベック「コサック(美しきコサック)」

 

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ヘレン・シャルフベック「スペイン人男性」

 

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ヘレン・シャルフベック「快復期」リトグラフ

 

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ヘレン・シャルフベック「快復期」リトグラフ

 

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上記の快復期の油彩ヴァージョン

 

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ヘレン・シャルフベック「堅信式の志願者(祈祷)」リトグラフ

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ボケてしまいました。

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ヘレン・シャルフベック「コスチューム画(パン屋の娘)」

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ヘレン・シャルフベック「コスチューム画(パン屋の娘)」

 

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「コスチューム画(パン屋の娘)」の油彩ヴァージョン

 

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ヘレン・シャルフベック「シルクの靴」リトグラフ

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ヘレン・シャルフベック「シルクの靴」リトグラフ

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「シルクの靴」の油彩ヴァージョン

 

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ヘレン・シャルフベック「絵本」リトグラフ

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ヘレン・シャルフベック「絵本」リトグラフ

 

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「絵本」

 

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エレン・テスレフ「マリオネット」

 

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エレン・テスレフ「フィンランドの春」

 

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エレン・テスレフ (上)「フィレンツェゴルドーニ野外劇場」(下)「フィレンツェゴルドーニ劇場」

 

 

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エレン・テスレフ (上)「フィレンツェゴルドーニ野外劇場」(下)「フィレンツェゴルドーニ劇場」

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エレン・テスレフ「ポンテ・ヴェッキオ」「フィレンツェ」「ロッジア・デイ・ランツィ」

 

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エレン・テスレフ(右上)「チェルト―ザ」(右下)「アルノ」(左下)「ポンテ・ヴェッキオ」(左上)「フィレンツェ

 

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エレン・テスレフ「フィレンツェ

 

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エレン・テスレフ「フィレンツェ



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エレン・テスレフ「哀歌」

 

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エレン・テスレフ「フィンランドの春」

 

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ヒルダ・フルディーン「画塾の室内」

 

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ヒルダ・フルディーン「待ち時間」

 

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ヘレン・シャルフベック「カール・ユーナス・ルーヴェ・アルムクヴィストの頭部、彫刻に基づく」

 

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ヘレン・シャルフベック「リュート弾き、トマ・クチュールに基づく」

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ヘレン・シャルフベック「負傷兵、スケッチ」

 

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ヘレン・シャルフベック「スケッチブックⅠ、子ども時代」

 

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ヘレン・シャルフベック「スケッチブックⅢ、青春時代」

 

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マリア・ヴィーク「人物習作」

 

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マリア・ヴィーク「人物習作」

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マリア・ヴィーク「スケッチブック」

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マリア・ヴィーク「スケッチブック」

 

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マリア・ヴィーク「スケッチブック」

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エレン・テスレフ「人物習作、パリ」だと思います。

 

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エレン・テスレフ「スケッチブック」

 

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エレン・テスレフ「スケッチブック」

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ヒルダ・フルディーン「自画像」

 

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19世紀後半から20世紀初頭のフィンランドでは、ロシアからの独立運動、そして1917年に誕生する新しい国家の形成と歩調を合わせて、社会における女性の立場や役割に大変革が起こりました。美術界においても、19世紀半ばに設立されたフィンランドで最初の美術学校は、当時のヨーロッパではめずらしく、創立当初から男女平等の美術教育を奨励しました。この時代の女性たちは、奨学金や留学のチャンスを掴み、国際的な環境で研鑽に励みながら、芸術家としてのキャリアを切り開くことができたのです。

日本とフィンランドの外交関係樹立100周年を記念した本展は、独立前後のフィンランドを生き、同国の近代美術に革新をもたらした女性芸術家たちに焦点を当てる、日本で初めての試みです。この展覧会は、フィンランド国立アテネウム美術館の企画によって欧米3都市で開催された国際巡回展をベースに、日本オリジナルの内容に再構成したものです。同美術館のコレクションから、近年世界的にも注目を集めるヘレン・シャルフベック(1862-1946)や、パリでロダンに学び、彼の代表作《カレーの市民》の助手も務めた彫刻家シーグリッド・アフ・フォルセルス(1860-1935)ら7人の女性芸術家を一堂に紹介します。絵画、彫刻、素描、版画など約90点の作品を通して、生涯にわたり独自の芸術表現を追い求めた、彼女たちの多彩な活動と功績を是非ご覧ください。