仙人入門
『仙人入門』程聖龍著 東京書籍
おもしろくてげらげら笑いながら読みました。
これを読めば仙人になれるんだ!と勘違いしそうな題名ですが、(私だけかな、てへ)これは程聖龍氏の半生記です。
これを読めば仙人になれるんだ!と勘違いしそうな題名ですが、(私だけかな、てへ)これは程聖龍氏の半生記です。
兄弟子は忍者犬で、彼に修行してもらっただの、
ちゃんとできないと忍者犬に前足で殴られただの。
彼とは細かな所まで話ができただの。
諸葛孔明に奇門遁甲の術を授けた人物だという齢二千歳の仙人に修行してもらっただの。
至るところにおもしろさが散りばめられています。
ちゃんとできないと忍者犬に前足で殴られただの。
彼とは細かな所まで話ができただの。
諸葛孔明に奇門遁甲の術を授けた人物だという齢二千歳の仙人に修行してもらっただの。
至るところにおもしろさが散りばめられています。
食事は兄弟子の忍者犬から。その日の修行がうまくいかないと、食事は残してもらえない、
著者が小学校に行ってる間、忍者犬は砂場で土遁の術やブランコで飛び降りる訓練など一人修行したり、ジャングルジムの上で一人でお弁当のおにぎりを食べていたといいます。
著者が小学校に行ってる間、忍者犬は砂場で土遁の術やブランコで飛び降りる訓練など一人修行したり、ジャングルジムの上で一人でお弁当のおにぎりを食べていたといいます。
著者が中国に渡ったとき、1日中動かない老人等を見て大陸に流れる大陸時間に触れます。
やっぱり日本はせせこましいよな〜と思います。著者が感じた大陸時間は次元を超えているかのよう。
やっぱり日本はせせこましいよな〜と思います。著者が感じた大陸時間は次元を超えているかのよう。
笑いながら読んでいると、
「いつものように修行を終えた人達を崖から落として葬っていたときのことだ」
と仙人を見るために中国の深山に入ったときの一節に出くわします。
「いつものように修行を終えた人達を崖から落として葬っていたときのことだ」
と仙人を見るために中国の深山に入ったときの一節に出くわします。
かと思うと急に真理を突いてきたりして、はっとさせられます。
荒修行や戦場での死との隣り合わせの経験の中で、死ぬ人間と生き延びる人間の違いの違いを絶えず探っていた著者が最期に到達した真理。
荒修行や戦場での死との隣り合わせの経験の中で、死ぬ人間と生き延びる人間の違いの違いを絶えず探っていた著者が最期に到達した真理。
『「今」というのは死ぬ瞬間なのだ。』
『今は生きているが次の瞬間銃弾に当てって死んでいるかもしれない、『だとしたら武術が目指すものは「今」という「死ぬ瞬間」をいかに継続させるということになる。とりもなおさず、それが生き延びるというこのなのだから』と。
また、著者が修行中に悟った中庸の概念は私の心に響くものでした。
著者は中国と日本の根本的な考え方の違いについても学びます。中国のそれはだめを潰すと良いが残るという考え方です。
「良い、悪い」、「強い、弱い」は陰陽のごとく同じ度合いであるということを悟ります。
「良い、悪い」、「強い、弱い」は陰陽のごとく同じ度合いであるということを悟ります。
『中庸とは「何かと何かの真んなか」ではない。つまり「良い」と「悪い」の真ん中に「ほど良い」があるわけではない。それを中庸だと考える、その考え方自体が間違っている。なぜなら「良い」と「悪い」は別々に存在することなどできないからである。「良い」と「悪い」は一方の在り方が、そのまま他方の在り方を支えているひとつの対概念であり、どちらか一方では存在しえないものだ。
だから「中庸」とはあっちとこっちに存在する「良い/悪い」の中間点を探す作業ではない。「良い/悪い」の両方が同時に存在している地平を探すこと、それが中庸を見出すということなのだ』
だから「中庸」とはあっちとこっちに存在する「良い/悪い」の中間点を探す作業ではない。「良い/悪い」の両方が同時に存在している地平を探すこと、それが中庸を見出すということなのだ』
思想って自分が身をもって体験することで獲得していくものなのだと思いました。
さらさらさら〜と読めるのでオススメです。