もいんもいん!

「もいん」とはもとは北ドイツのおはようという意味です。

火の見やぐらの女

私は火の見やぐらに夫と離別してから住んでいる。
街を魔が襲うとき、私は鐘をならす。
私にできることは鐘をならすことだけである。

 私に他にできることは何もないし、したいこともない。そんな風だから夫に捨てられたのだろう。

 この街は私が高校まで育った街である。大学入学とともに上京し、就職し、結婚したが夫と別れて帰ってきた。
夫は私をずっとおんぶしていた。だがある日、おんぶすることに疲れたという。
実家は父と母、そして父方の祖父母が同居している。私は実家の生活に息がつまり、火の見やぐらに住むことにした。食料は幸い、市役所に勤める同級生が届けてくれる。便所は敷地内の公衆便所ですます。もう家族は私を見捨ててくれたのでわいわい言わなくなった。

火の見やぐらは高台にあるので、太平洋の水平線が見える。私は日がな一日水平線を見て過ごす。

ある日、1人の男が火の見やぐらを昇ってきた。それ以来その男はここにいついてしまった。私とその男は日がな一日水平線を見て過ごした。

ある日、別れた夫がわたしたちを遠くから見ているのが見えた。
男を見て安心しているようだった。

男は私と違い、ちょくちょく火の見やぐらを下り町に行った。
ある日、男が便所に降りたまましばらく戻ってこないことがあった。いつもなら数時間で戻るのだが、その日は半日帰ってこなかった。男はなんでもなかったようにふらりと帰ってきた。

それから数時間後、住宅街で煙があがった。私は鐘をならし、ボヤ騒ぎですんだ。

その日も男は便所に降りたまま、半日帰ってこなかった。
男が戻ってきてから数時間後、また住宅街で煙があがった。

その日は男は丸一日帰ってこなかった。男は戻ると火の見やぐらの階段は登らず、下から「降りてこないか」と声をかけてきた。私は降りて男に促されるまま二人で女子便所に入った。

気配がした。火の。

私は男を振り払い、便所の外に出た。
いつもと違う空気がした。

急いで火の見やぐらを登ると街はすでに火の海だった。
私はしばらくぼうっと街が焼かれていく様子を見ていた。
男を捜したがいなかった。

終わり