もいんもいん!

「もいん」とはもとは北ドイツのおはようという意味です。

新人類

私の家の裏山を下ると底なし沼があった。
祖母に手を引かれ散歩したときには必ず、あそこは底なし沼だから絶対に近寄ってはいけないよ、と言われた。

小学校も3年生になると私は一人で裏山で遊ぶようになる。4歳年下の弟も勝手に僕の後ろを時たままとわりついて来る。私はそれがうっとおしくて弟を無視する。

ある日、たわむれにあの底なし沼だと言われている沼で石を落としたりして遊ぶ。当然、弟は怖がるがそこはおかまいなしに私は遊び続けた。石投げも飽きると沼の端をまたいでみる。少しづつ距離を広げジャンプしてみる。ひやひやの弟をおかまいなしにする。
「お姉ちゃん、やめなよ」と中ば懇願する様に私に言う。私はますます調子に乗り、どんどん、沼をジャンプする。
「浩彦もやってみなよ」と私は軽く弟に言った。
弟は当然しぶった。そこを僕は突く。
「この根性なし、もう遊んであげないぞ」殺し文句だ。
弟は躊躇しながらも、「もう私の後に着いて来るなよ」という一言で折れ、ジャンプした。着地に失敗し、沼に落ちた。
「わあ!」と声をあげずんずん沈んで行った。私はどうしようもなかった。
ただ弟の沈んで行く姿を見る事しかできなかった。
はっ、と我に返り大変なことになった、と弟を助けようとしたが、弟は泥沼に沈んでしまった。



私はその後、施設に預けられた。
それからの私は何をするのも『どうせ私なんて』と思うようになった。
施設ではもちろん、夏休み、冬休み、春休みなんていうのがあったけれど、家族が迎えにくることはなかった。
時たま、気の向いたときに面会に来てくれるが、よそよそしい態度は私にとっても苦しかったが、それでも幼い頃は嬉しかった。

高校3年の冬、祖母が死んだので実家に帰省することになった。
施設に預けられてから初めての帰省だった。
私は見捨てられた子供だったのだ。最も私が私の弟を見捨てたのだけど。

家に帰っても居心地のいいものではなかった。
通夜客は物珍しそうに僕を見る。
ああ。真弓ちゃん、大きくなったねえ、と時たま親類が声を掛けてくれる。

私の母と父は私を呼んだことを後悔しているようだ。

きっと祖母も私が殺したんだ。
私がみんなを殺したんだ、と思わなければやりきれない空気だった。

通夜は滞りなく終わった。
私は弟の葬儀に出たのか覚えていなかった。
そんな大事なことを忘れるだろうか。そんな大事なことも忘れるのだ、私という人間は。

私は祖母の遺体がまだ置いてある座敷から移動させられなかった。
それが当然のようだった。

お風呂どうぞ、朝は8時に朝食だから、と母に言われた。
風呂からでると布団が敷いてあった。

翌日、私は家族そろってみんなで朝食をとるのが堪え難かったので
私は食欲がない、と言って散歩に出かけた。

この家の裏山を下った。
するとそこはもうだいぶ以前と風景が変っていた。
山は切り崩され、田んぼは補正され、なんだかよくわからないリサイクル工場やら、木材工場やらになっていた。

あの底なし沼があったところはかろうじて小さくはなっていたが少し沼が残っていた。

「お姉ちゃん・・・」と突然声がした。
私は驚いた。沼からか?
「そうだよ、お姉ちゃん」
「おまえか、浩彦」
「ごめんよ」
「なにが、ごめんだ、あやまるべきは僕の方じゃないか」
「ごめんよ、お姉ちゃん」
沼をのぞくとフナが2匹泳いでいた。
「おまえはフナになったのか?」
「今はフナだね、お姉ちゃんが来るのをずっと待ってたんだよ」
私は頭を押さえた。

私は確かに弟浩彦の声を聞いたような気がする。でもこれは幻なんだ。
そもそも私が弟を殺したんだから弟が私にあやまるはずはない。
これは私に都合のいい夢なんだ。そうだ、そうに決まっている。

「浩彦」と呼びかけてみたが、やはり答えはなかった。

そしてそれはやはり都合のいい夢ではなかった。


私は高校を卒業し寮のある実家から遠く離れたぬいぐるみ工場に勤め始めた。

見覚えのあるキャラクターは少なく見た事もないようなキャラクターや
なんの変哲もない動物のぬいぐるみが多かった。

ある日、ミシンを使っていると、手に違和感を感じた。
寝違えたかな?
その違和感はその日だけではなく、何日も、何ヶ月も続いた。
寝違えたにしては期間が長過ぎるし、手も痛く動きも悪くなっていった。

最近、私の作るぬいぐるみはどことなく傾くようになったので再三に渡り
工場長から注意を受けていた。
ある日、有給休暇を使って整形外科に医者に行った。

関節炎だと言われしっぷを貰ったがなかなか治らなかったので血液検査をしたらアミラーゼという数値が異常に高いので精密検査が必要だと言う。
会社に言って休みをもらい大学病院で精密検査をした結果、膠原病という難病だという。

私はすぐに受け入れた。それは私にふさわしい病気だと思った。

難病は治らないという。経過観察や対処療法くらしか施し用がないという。

難病は国や東京都に申請すると医療費が免除になる場合があるというが、私の場合、まだ免除になる程の進行度ではないという。しかし、経過観察のための医療費は高かった。

とりあえず、まだ手は動くのでぬいぐるみ工場での仕事を続けていたが、
ある日、とんでもなく傾いたオットセイのぬいぐるみを縫い上げてしまった。

これで私の退社は決定的になった。
私はその傾いたオットセイのぬいぐるみを持ち帰りペットにした。
異常な傾きをもってしても愛らしなぜかとても心ひかれ好きになった。

もしかして私が生まれて初めて好きになったものかもしれない。

私は友人と呼べるような人物もいないし遊びにも行かず趣味も持たなかったので貯金はあった。
親は20歳になるまでは家に仕送りなどしなくていいと言った。
もしかしたら私の金など受け取りたくはないのかもしれない。

当面は生活できる貯金はあったが、寮を出て行かなければならないのがやっかいであった。

また経過観察で大学病院に行った。
担当医師に再三、金がない、金がない、なんなら何かの被験者になると言っていたら、ある日、治験の話が来た。

ある定められた区間を歩くだけでいいという実験だ。それに参加すれば
今後1年間は入院費と今後10年間の一切の医療費を免除してくれるという。

そして私はその実験に参加することになった。
そこはある村の閉鎖された原理力発電所であった。

皆がものものしい格好でいる中、私だけが普段着であった。
ああ、この実験はあれだな、とすぐにわかった。
しかし私は恐れなかった。
弟の恐ろしさに比べたらこんなものなにも怖くなかった。

それに今や私を待つものなんて病院に預けてあるかばんに入れられている傾いたオットセイのぬいぐるみくらいだ。

そして私は放射能で汚染された発電所内へ入った。

言われた通り、5分たってから発電所から出た。5分というのこれほど長く感じたことはなかった。弟が沼に沈んでいったのもこれくらいの時間が経ったろうか。

そして私は液体で洗浄され、都内の病院に戻された。
そして一年間の入院生活が始まった。

ほぼ毎日採決され何かの検査をされた。

検査結果は聞かされなかった。最も聞こうとさえ思わなかった。
小耳に挟んだ情報に寄れば、(口の軽い看護師が言ったのだ)私の白血球の数値は平均の数値となんら変らないということであった。

どうやら、膠原病というのは放射能に強いらしいのであった。
それを私の体を使って実験したらしいのだ。

そうか、膠原病は核に強い新人類であったのか・・・、
しかし、浩彦よ、だからといってこのお姉ちゃんにはどうしようもないよ。
私にどうしろというのか、私にはさっぱりわからなかった。

あの傾いたオットセイだけが私を見ていた。

おわり