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BS世界のドキュメンタリー▽City40~旧ソビエトの“秘密都市”を行く~

City40 ~旧ソビエトの“秘密都市”を行く~


のどかなリゾートタウンを思わせるオジョルスクは実は幾重にも恐ろしいディストピア。核開発のための秘密都市。核からみ故、より機密性も高くなる。

今でこそオジョルスクと町の名前があるが、昔は単にCity40、40番目の町と言われていた。
第二次大戦中、米ソは核兵器を開発。戦後、ソ連は核開発のための秘密都市を都心から遠く離れた森の中に建設した。
秘密都市とは国家の中の国家。町がフェンスが囲まれている、外界から遮断された世界。これは過去の話ではなく、現在進行形の話である。今も大量の核物質があり、マヤークの工場施設は今も国家機密。
秘密都市の性格上、当然思想統制される。単なる治安維持ではなく、反体制的な人物を洗い出し、黙らせる事が目的だ。ジョージ・オーエルの1984年だけでも恐ろしいのに、それに核の脅威が加わる事によって恐ろしさは想像を絶する。最悪な土壌で見た目だけは暮らしやすく美しい町で最良な教育、食べ物、医療を受ける。
秘密都市での放射能汚染の実態は明かされず、核工場の放射性事故の処理は杜撰だ。
このドキュメンタリー番組は人権派弁護士クテポワを中心に、ジャーナリストや元科学者のインタビュー、記録映画の映像で構成されている。
ジャーナリスト「子供の頃からこの近くに別の世界がある事に気がついていた。隔絶された世界、国家の秘密の場所。1994年、プルトニウム爆弾が作られていた事を知った」
「両親の友達がオジョルスクに住んでいた。オジョルスクから出るのに許可証がいる。オジョルスクには列車もバスも通じでいない。他の人は入れない。」
1994年のオジョルスクの記録映画では「10万人都市で、のどかなリゾートタウンを思わせます」の説明。
このドキュメンタリー番組のカメラが潜入。
「暮らしやすい美しい町。でもよそ者は入れない。教育レベルの高い町。皆良い医療、教育を受け、最高のものを無償で受け取る事に慣れている。お金のために撮影に応じる者はいない。」
オジョルスクのジャーナリスト「この町で生まれた者は一生ここに住みます。それだけは決して変わりません。秘密都市はある意味快適。さらに安全でもある。子供たちが夜11時に外で遊んでいても心配ない。あるとき、クテポワが町の周辺にある有刺鉄線は、深刻な人権侵害であると訴えた。そう言われるまで、私自身気がつきませんでした」
弁護士のクテポワはこの町の人々や放射能の被害を受けた人の権利を守りたいとNPO団体「希望の惑星」を立ち上げた。当局ににらまれ正式な認可を受けていない。しかし健康被害を受けた人々がやってくる。市の役人ですらやってくる。みな信用できる相談相手がいない。

ここは外界から遮断された都市として築かれた。戦後、スターリンは独自の核兵器開発に着手。オジョルスクの近郊、マヤークに核技術施設の建設が極秘裏に進められた。国家の重要施設としてこの町の歴史と町の人々の思想を支配してきた。
町人一人一人に監視が付き、常に監視され私生活の全てを見張られている。
町の外に行くのも大変。出身地を聞かれたら、別の町を言う。電車に中で出身地を聞いて来た男はスパイだったりする。「この町は裏切り者を許さない」
クテポワ「8歳だった母は、プルトニウムの精製をしていた科学者だった祖母に連れて来られた。」
工場建設は捕虜収容所から駆り出されれ強制労働させられた。ソ連全土から選り抜きの科学者が駆り出された。
当時、プルトニウムを扱うのに手袋を使わず、スプーンですくっていた。危険な作業のせいで大勢の人が亡くなったが、町にはさらに多くの人が集められた。人々は結婚し、子供を作り町ができていった。

国家機密を守るためマヤークの核施設と付近の町は地図に記載されなかった。
スターリンの秘密警察の目が常に光っていた。
「与えられた仕事を拒否した者はみな強制収容所で処刑された。選択肢はなかった」
「私たちはチェスの駒のように動かされることを受け入れていました。社会主義の建設に必要なプロセスなのだと・・・。とはいえ。そのような状況は強制収容所のようでした」
クテポワ「母たちは町の外に手紙を出すこともできず、親戚からは行方不明だと思われていた。極端な秘密主義がしかれ、人々は町に閉じ込められた。まるで世界から消え去ったかのように。」
「過去の戦争や基金や強制労働に比べたら楽園のよう。食べ物や娯楽、文化的な生活が与えられた。よりよい生活を保障された人々は自ら口を閉ざした。この町の人々は自分が築いた核の盾が世界を救うのだと今も信じている」
元マヤークの核科学者「私たちはえさをたっぷり与えられる動物園の動物のように生きて来た。なぜそうなのか説明はなく、当たり前過ぎて疑問に思わなかった。幸運だとさえ思わなかった。」「冷蔵庫には食べ物が豊富にあり、子供たちはスポーツクラブに通う。父は家族に何不自由ない収入を得ていた。私は毎日おやつを買うおこづかいをもらい、家には常にチョコレートがあった。町の外へ旅行に行き店に何もないのを見て驚いた。本当にショックでした。」
当時のソビエトではここに来るのが名誉だった。
最高製品が手に入って、科学者たちは研究に没頭できる。核分裂を起こすこと以外、関心がなかった。
核施設の秘密都市の性格上、放射能の影響による健康被害も環境被害も放置。隔絶された町で放射能の影響は何世代にも及ぶ。放射能の長期的な健康被害や子孫への影響を論じる事は許されなかった。自然への影響も論じる事はなかった。労働者も無関心。命じられた通りに働くだけだ。
1990年代には工場の核廃棄物は直接川に棄てられており深刻な環境汚染を引き起こしていた。表向きは事故だが、実際は計画的に投棄されていた。イルタヤ湖は「死の湖」「プルトニウム湖」といばれている。湖の水は水源となる川に流れ込んでいる。
工場に甚大な事故が起きても、根本的な解決には至っていない。1957年のマヤークの工場の放射性廃棄物のタンクの爆発では、放射性物質は105kmに飛散し9地域が汚染され、23の村が廃棄されオジョルスクと周辺の住民50万人が危険にさらされた。放射線量はチェルノブイリの5倍に相当。

(当時の動画)
科学者「ここにいられる時間? 計算すると(シンキングタイム)20秒です。」
https://youtu.be/PBrYwVeC7w8

汚染された川で遊ぶ子ども、牛も水を飲みに来る。牛が川に入ると川底の沈殿物が水に混ざって汚染の度合いはさらにひどくなり、牛の口に入った放射性物質は牛乳に混入、人々は日々その牛乳を飲み、乳製品を食べている。
1967年、工場の廃棄物を捨てていた湖がひあがり、周辺の広大な地域に放射性物質が飛び散った。マヤークの工場汚染が引き起こし被害は甚大。
多くの死者を出し、今も人々の体を破壊し続けている。

NPO「希望の星」での相談は『オジョルスクは1957年の汚染地とはされていない。』こと、それは被害がないという建前であり。『国の賠償の対象者は減る一方』それは見殺しだ。
オジョルスクの人々は裁判を起こすことに消極的。国がロシアに変わっても権力を恐れている。
秘密都市では一般的な法律は適用されない。1994年、法的な地位を得たのもこの頃。この時に町の名前はオジョルスクになった。しかし今でも法的に曖昧な状態に置かわれいる。1994年より以前の出生地には別の町の名が記されている。訴訟の際、それが大きな問題となっている。過去の記録を正すことは困難だ。
このNPO団体はロシア当局から目を付けられ2年前から圧力がかかっている。大家にもやつらを追い出せと電話があった。

今もマヤークの工場施設は国家機密で推定50トンのプルトニウム、38トンの高濃縮ウランが貯蔵されている。

ロシア国営原子力施設職員「何が行われ、どんな危険が伴うのか国は公表すべき。マヤークやチェルノブイリの大惨事はそこに暮らす人々に国への不信感を植え付けた。必要なのは事実、一度嘘を言ったら誰からも信じてもらえなくなる」

プーチン「過去は重要な要素だが、未来も考えなければならない。ロシアは強大な核保有国、核による抑止力を強化している。どの国もロシアへの干渉は無謀だと知るべきだ」

核科学者「私は自分のふるさとがある国を愛している。しかし、この国に存在する政府は信用できません。美しい森や湖、そこにすむ魚や植物、私の大切なふるさとは将来どうなってしまうのでしょうか。心配でなりません」
ジャーナリスト「放射能に汚染されていると知りながら、当局が今も人々を住まわせているのが信じられません。ここは悪夢のような場所です。住み続けることなど、とても・・・」

住民「私たちはどこかで目をつぶってきました。秘密都市に住む者はよその人には説明しがたいある種の誇りがあったからです。優遇されていると思っていた。実際はそうではなかった。しかし、今現実にここを離れるのは困難です」

核科学者「私自身はこの閉じ込めらた町からいつか出たいと思っていた。何度も離れようと試みたが、これもまた何かのめぐりあわせでしょうか」

クテポワ「自分の身の安全は心配だが、もはや引き下がる事はできない。救いを求めても手を差し伸べてもらえない人たちがいる。彼らの側に立っていたい。第二次世界大戦パルチザンのように闘う」

クテポワは最後のインタビューのあと、当局の取り調べを受け、産業スパイ行為、及び原子力産業への陰謀、企ての罪に問われた。2015年、四人の子供を連れて国外脱出。フランスで政治亡命を認められた。
旧ソ連諸国やアメリカには今も閉ざされた"秘密都市"が30ヶ所以上存在している。